軍師の下策
―― 彼女の表情を見た瞬間、しまった、と思った。 夕暮れも間近な京城の街はいつも賑やかだ。 仕事を終え家路に急ぐ者、明日に備え支度を急ぐ者、宿を探す旅人の姿なども多い。 特に市街地の市周辺は、夕食を済ませようとする者や、今日最後の一稼ぎをと張り切る商人達で実に活気づいていた。 常であれば、そんな賑やかさは民の生活が潤っている証であり、ひいては孫家の利へと発展することもあって、喜ばしく見る公瑾だが、今日ばかりはそんな悠長な事は言っていられなかった。 (いったいどこへ・・・・!?) 賑わう街の人混みをかき分けるようにして、公瑾は足早に歩きながらあたりを見回していた。 探している姿はたった一つ ―― 先刻、京城から飛び出していった花だ。 (もう半刻はたつというのに、どうして彼女はこういう時だけやけに素早いんでしょうね。) 花の後を追ってさほど間は置かずに飛び出したはずなのに、一向にその姿を捉えられない事に、公瑾は苦々しい思いをかみ殺す。 都督の地位にある公瑾が取り乱した様子で城を飛び出していけば、いらない憶測を招くかも知れない。 故に城を出るまでは涼しい顔をして常と変わらぬ様子でいた事が、今の現状につながっていると痛いほどわかってはいる。 もしその事まで考えて花が部屋を飛び出したのだとすれば、たいした策士だが。 (・・・・花はとっさにそんな計算をするような人ではない。) 当代で自分と並べ称される伏龍の弟子の称号を持つ花だが、一瞬よぎった可能性を公瑾自身があっさりと否定した。 彼女の策は、憎らしいほどに優しいのだ。 一見ぼんやりとした普通の娘のようでいて、花は時に公瑾が考えもつかなかった考えを眼前に突きつける鋭さを持っている事を、もう公瑾は疑ってはいない。 でも、だから・・・・。 (説明を・・・・すればよかったんでしょうね。) 京城を出てからは、その必死さを隠しもせずに進めていた歩みを、公瑾はわずか弛ませた。 飛び出した花を追いかけた直後は、我ながら頭に血が上っていたらしくその背を追うことだけしか考えていなかったが、いつもと変わらない京城の賑わいの中に身を置いて半刻もたてば少しずつ頭も冷えてくる。 その頭で考えれば、元来優秀とされる公瑾の頭脳はあっさりと今、花を追いかける原因となっている事態に答えを出してしまう。 ―― 公瑾を父と呼ぶ少年が現れて、その事への説明をしにいく・・・・つもりだったのだ。 完全に不意打ちで城の廊下で「父上!」と少年に抱き付かれた時は、さすがに動揺してしまって何かいうより先に周りが騒ぎ立ててしまったから。 (隠し子だなどと!) 思わず舌打ちをしたくなって、なんとか思いとどまった。 二喬だけならともかく、仲謀と尚香に見られてしまったのも運が悪かったとしか言いようがない。 騒ぎがこれ以上大きくなる前に収束したくて慌ただしく動いてしまったから、花へ的確な説明をする余裕もなかった。 だから改めて説明をしようと部屋を訪ねたはずだったのに。 (説明?・・・・いえ、弁明でしょうか。) そこへ来てふと公瑾は自嘲に口元を歪ませる。 あの少年が隠し子だと騒ぎ立てられた以上は、隠し子ではないと提示してみせるのが説明だ。 公瑾自身には彼が自分の隠し子ではない確信があった。 女遊びをしたことがないとは言わないが、どうかんがえても少年の年齢と合わないのだから、間違いなく自分の子ではないだろう。 だとすれば、似通った面差しや少年に聞いた名前や迷子になった経緯などを聞き出せば、簡単に彼の本当の父親など割り出せるはずだ。 そしてそこまでの根拠をきちっと提示すれば、花だって納得してくれるとわかってはいた。 けれど、実際の公瑾の行動は、少年を女官の手にあずけるやいなや、必要な調査をするわけでもなく真っ直ぐに花の元へ向かうことだった。 相手に何かを信じさせようとしたら、中立な証拠も出さずに主張する自分の側だけの発言だけ繰り返すなど下策以外の何者でもない。 そんな軍師の基礎の基礎とも言えるべき部分は、あの時の公瑾の頭から消えていた。 ふっと、少年が現れて大喬と小喬が騒ぎ出した時に花が見せた表情が頭をよぎって、胸の奥が嫌な感じに軋んだ。 (あんな、疑うような・・・・) ―― 否、不安そうな顔を、花は見せた。 信じたい、と花は言った。 けれど、簡単にすべてを信じてしまうほど、花は単純な娘ではない。 同時にいくつもの可能性を考えるのは、軍師としての性のようなものだから少し考えれば公瑾にだってわかる。 花は公瑾の言葉を信じたいと願う反面、この世界では地位の高い者が複数妻をもつ事が不道徳ではないことや、公瑾の年齢などを考え合わせて隠し子を否定できない可能性をはじき出していたのだろう。 少し頭が冷えればわかることだ。 けれど。 「・・・・・」 ぐっと、外套の下で握った拳に力を入れて、公瑾はゆるめた足を再び速めた。 『―― 気持ちの整理がつくまで、玄徳軍に帰った方がいいのかも・・・・』 そう花に告げられた瞬間、冷静さなど砕け散った。 もともと、何の証拠も持たずただ自分の言葉だけで花を説得しようとしていた下策を棚にあげて、頭に血が上った。 どうして、信じてくれないのか。 どうして、離れるなどというのか。 どうして・・・・。 (・・・・他の、男の元へなど。) 違う、そうじゃない。 花は別に玄徳の元へ行きたいと言ったわけではない。 わかっていても、感情が理解をしなかった。 市の賑わいも夕暮れが深まるにつれて、少しずつ夜の活気へと変わっていく。 刻一刻と変化する街の空気は、もどかしい苦しい公瑾の気持ちに拍車ばかりをかけた。 ―― もしも、花があの少年を公瑾の隠し子だと信じてしまったら、きっと彼女は酷く傷つく。 そして、もしも ―― 頭を冷やすためと離れてしまって、それきり帰ってこなかったら。 すっと、全身が凍り付くような恐怖が公瑾を支配する。 (ああ・・・・結局、私は臆病なままなわけですか。) 伯符が死んでから、誰も人を心に入れないようにしていた時とは別の臆病さ。 止まっていた時を動かし、あっという間に公瑾の心の中へ入ってきてしまった花。 その彼女を失う事が、こんなにも恐ろしいのだと。 (・・・・我が事ながら、呆れますね。) そう、胸中で呟きながら、公瑾の足は自然と走り出していた。 ―― そんなこと、もうとっくにわかっていた事なのだ。 店の多い通りを抜けて、市街地の方へ足を向けながら、公瑾は前を見据える。 (臆病だろうが、下策しか思い浮かばないほど惑わされようが) 結局は、花から手を離すことができないのは自分なのだ。 (だから・・・・花。) ―― どうか、離れていかないで欲しい。 素直に口にすることができなかった言葉を、彼女を捕まえたら必ず伝えようと決めたその時。 「やめてください・・・・!離して!」 「!」 すぐ近くで聞こえた探し求めた声に、公瑾は迷わずその方向へと、全力で駆けだした ―― 〜 終 〜 |